第2次世界大戦時、ユダヤ人の虐殺が行われている中、オスカーシンドラーは自分の工場にユダヤ人を労働者として雇い、命を救ったというエピソードがあります。
その実話を描いた映画『シンドラーのリスト』をご存知の方もいるかと思います。
ポーランドのクラクフという街には、当時のシンドラーの工場が博物館として残っています。
シンドラーの工場で作られた製品
博物館には、工場のことだけでなく、当時のクラクフに関する展示が多くあります。
そして、当時リトアニアで外交官として勤務していた杉原千畝という日本人もまた、多くのユダヤ人の命を救った一人です。
(当時の領事館)
(リトアニアのカウナスに残る現在の記念館。)
第二次世界大戦中、ドイツと秘密協定を結んでいたソ連がリトアニアを事実上占領したのは、杉原さんがリトアニアに赴任して1年後の7月でした。するとソ連軍から、8月25日までに領事館を閉鎖するよう求められました。
その5日後の早朝、杉原さんは外の騒ぎに気づきます。
窓を開けると、領事館の前にはたくさんのユダヤ人でうまっていました。隣国ポーランドから逃げ出してきたユダヤ人の要望は、安全な場所へ避難するために日本の「通過ビザ」を申請したいとのことでした。
(領事館の前に群がるユダヤ人たち)
(現在も残る門)
西回りでは、いつドイツ軍に見つかり強制収容所へと連れて行かれるかわからない状況の中、ユダヤ人たちは東回りで安全な場所を求めました。(杉原さんが発行したビザで海外へと非難できたユダヤ人の非難ルート)
大量且つ特別な要請に、日本に確認を取りましたが、返事は「許可できない」とのこと。
再度打診しますが、いい返事はなく、ソ連軍からの撤退命令の日は近づきます。
杉原さんは悩みます。
ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人を助けるということは、同盟国であるドイツとの関係を悪くしていまうのではないか・・・。また、家族の命は守られるのか・・・。
数日悩んだあげく、出した答えは杉原さんの日記にも記されています。
「ユダヤ人の申し出は人道上どうしても拒否できない。形式にこだわらず、領事が適当と認めるものがあれば発給してもよいのではないか」
そして奥さんにもそのこと伝えます。
奥さんから返ってきた言葉は、
「私たちはどうなるかわかりませんけど、そうしてあげてください・・・」
当時、ドイツのスパイにも監視されていたと言われている中での決断でした。
その後、杉原さんの日記にはこう書かれていたそうです。
「ユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビザを拒否してもかまわないとでもいうのか。それが果たして国益に叶うことだというのか。苦慮のあげく、私はついに人道主義、博愛精神第一という結論を得ました。」
(当時の執務室。家具などは再現ですが、国旗は当時掲げていたもの。)
杉原さんがビザを発給したユダヤ人のリスト。通称「杉原リスト」。
ソ連軍からの撤退命令の日、当日まで、電車が出発する時まで、列車の窓の外に群がるユダヤ人のために、ビザ申請の手続きを続けたといいます。
(カウナス駅)
(記念館に残る本物のパスポート。「杉原千畝」の名前が力強く書かれています。)
杉原さんによって発給されたビザは2139枚。救われた命は6000人以上。
杉原さんの言葉です。
「外交官としては間違ったことだったかもしれない。しかし、私は頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。」
もし自分がその立場におかれた時、その「当たり前」ができたでしょうか。
人として「当たり前」が難しく感じるのはなぜでしょうか。
立場やシステムに縛られていることが「当たり前」になっている中で、「人としての当たり前」を考えられる寛大な心を持ってこそ、世界で必要とさせる人なんだと感じました。
現在残っている記念館には、当時のものは殆ど残っていません。
そもそも、一般のアパートを借りて領事館としていました。その後はまた一般のアパートとなったので、家具などはもうありません。
しかし、床やドアノブ、暖房設備はそのままだそいうです。
さらに裏庭には、杉原千畝さんの奥さんである幸子さんが植えたリンゴの木が残っていました。
日本に留学していたというリトアニア人のスタッフの方はとても親切で、日本人とユダヤ人のエピソードにも関わらず、質問すると詳しく説明してくれました。
リトアニアではこの話しはあまり知られていないようですが、徐々に広がっているようです。
彼は最後まで親切丁寧に、すべて日本語で対応してくれました。
当たり前のように・・・。