アルゼンチンの南、パタゴニア地方。
(画像元はこちら)
南極に近いこの地域に来た目的は氷河を見ることでした。また、日本からこんな遠く離れた地に日本人宿があると聞き、是非行ってみたいと思ったのです。
実際に日本人宿に行ってみると、日本人のおじさんと韓国人の奥さんが小さな宿を経営していました。
この宿は日本人だけでなく、韓国人も多く宿泊していますが、とある1日はほぼ日本人の宿泊客となり、皆で晩餐が始まりました。
お互いの出身地をはじめとする自己紹介を行い、「沖縄」という言葉を聞いたオーナーのおじさんが言いました。
「ここにも沖縄の方がいるけど知ってますか?」
日本人がいることさえ驚いたのに、まさか沖縄の人がいる!?聞くとその沖縄の方もホテルを経営しているのだとか。
さっそく翌日行ってみることにしました。
観光客の集まるメイン通りからは少し離れ、野生の鳥ものんびり散歩するほど静かな砂利道を歩いていると、馴染みのあるシーサーが現れました。
このホテルの名は「宮里イン」。
ドキドキしながらドアを開ると、カギが閉まっていました。
すると、強い日差しのため、反射して中が見えないドアの奥から、
「ちょっと待ってね〜」
とこれまた馴染みのあるイントネーションで返事が返ってきます。
出てきたのはまだ若いおじさん。
私:「あ、宮里さんですか?」
おじさん:「はい、そうですよ!」
と言いながら、さらに奥のドアに向かって
おじさん:「え〜オバァ、ウチナーンチュ(沖縄の人)きちょんど〜。」
ここは本当にパタゴニアなのか…???
奥から出てきたのは足腰のしっかりしたオバァ。
(最後に撮影した写真)
「あんた、ウチナーンチュねぇ?」
と、ちょっと驚きながらホテルのリビングへ招いてくれました。
突然の訪問。とにかく座らせて話しをするオバァ。
いつの間にか出てくるジュース。フルーツ。
「で、あんたはどこに泊まってるの?」と、ホテルの主としての話しが出たのは1時間後。
沖縄らしいこの感じに癒されます。
残念ながら宿を予約していたのでオバァのホテルに宿泊することはありませんでしたが、大晦日の日に再度訪問することになりました。
このオバァ、聞くとこの大晦日が誕生日で90歳になるとのこと!まったくその年には見えません。
最後に「もう90年・・・。とても早かった。」と呟いたオバァの人生は壮絶なものでした。
ここからは少し、オバァの歴史を紹介します。
第2次世界大戦の沖縄地上戦前、政府命令で沖縄から県外へ学童疎開が行われました。
疎開には3曹の軍艦が使用され、そのうちの1曹「対馬丸」がアメリカの潜水艦による魚雷で沈没し、多くの子どもたちの命が奪われたのはご存知の通りですが、その中の1層「暁空」に、オバァは乗船していたそうです。
3曹の疎開船と2曹の護衛艦から構成されたナモ103船団は、「安全な航路を時間をかけて通る」か、「遅延は許されず(沖縄に向かう時は軍隊を輸送していたため)危険ではあるが、止むを得ず突き進む」かの意見に分かれましたが、結局軍命令により、危険な航路を選ぶことになります。
(オバァが大切に持っていた資料)
不安を抱えたままの夜、万が一の事態を想定して、甲板の上で救命胴衣を着用したまま一夜を過ごすことになります。
そして、不安は的中することになり、船団の左前に位置していた対馬丸がやられてしまいます。
オバァが乗っていた軍艦には命中しなかったものの、白い渦を巻きながら向かってくる魚雷を見たと言います。
真っ暗闇の中何が起こったのかわからず、また当時は戦争の良くない情報が隠されていたため、対馬丸沈没の実態を知ったのはしばらくしてからだったそいうです。
無事熊本に疎開できたのですが、親戚の紹介もあって神奈川に移動してからは東京大空襲に遭遇します。
爆弾から逃れることはできたものの、家もすべて無くなり、着の身着のまま熊本へと戻ります。
その後、【ウチナーンチュ必見①】で紹介した「ボリビア移民計画」(記事はこちら)の話しを聞き、「土地がもらえる」という言葉に魅力を持ったオバァは、移民を決意します。
ここでも親戚からの情報で「土地はあってもジャングル」という実態を知り、その親戚がいたアルゼンチンへと向かい移民生活が始まります。
言葉もわからない異国の地。そこでの生活は簡単なものではありません。
様々な仕事を試し落ち着いた「洗濯屋」も、景気の悪化に伴いお客さんが減っていきます。
アメリカのロサンゼルスにも1年ほど滞在し、沖縄に戻ったのは60歳を過ぎてから。
その後は首里に19年住んだそうです。(なんと、私が首里にいた時期と重なっており、住んでいた地区もすぐ近く。地元で有名な「のー饅頭」や「安室のサーターアンダギー」など、すごくローカルな話しで盛り上がりました。これも何かの縁でこの場所に引き寄せられたのかと感じました。)
首里生活の中で、「かりゆし長寿大学」という広告を目にし、まわりからの勧めもあって入学を希望したオバァ。倍率の高い中、くじ引きで決まる合格に見事と「当たり」を引き当て入学することになります。
※「かりゆし長寿大学」
高齢者(対象者60歳以上)に体系的な学習及び社会活動への参加の機会を提供することによって、生きがいのある生活基盤の確立と健康の保持・増進に役立てるとともに、地域活動の担い手を養成することを目的として設置する。
(沖縄県いきいき長寿センターより引用)
オバァは、入学式で学長がおっしゃった言葉が今でも忘れられないと言います。
「肩書きはお家に置いてきてもらって、今日からはみなさん1年生です。」
この言葉は「プライド」を無くし、移民として日本での経歴がないオバァや他の方々の心配を取り除き、1年間楽しく過ごせたと言います。
この、かりゆし長寿大学で「まだまだやれる!」と感じたオバァは、子や孫の残るアルゼンチンへ渡り新たなチャレンジをしようと決意します。
そして、パタゴニアのアルカラファテという場所で家族と一緒にホテルを経営し、今に至ります。
戦火を逃れ、「あの仕事もした。この仕事もした。」と語るオバァ。その時その時を強く生き延び、90歳になっても自分の人生に生き甲斐を持って過ごしています。
私たちは不自由無く、むしろ夢を追いかけることができ、生き方を「選択」できる今の時代は贅沢でだと感じました。オバァのように、もっともっと懸命に生きなければと痛感させられます。
(客室のドアに刻まれた「宮里」の文字)
「またおいで」と優しく見送りをしてくれたオバァの言葉が嬉しくて、3日後にまた訪問することになりました。
3日後。
先日訪問した時と同様、当たり前のようにお菓子やお茶の用意されたリビングに招かれ、オバァの話しが始まりました。(南米は夏のクリスマス)
オバァが洗濯屋をしている時、こんなエピソードがあったそうです。
とあるアルゼンチンのお客さんに、
「日露戦争の時に日本に戦艦を売ったのはアルゼンチンなんですよ!」
と。
その時オバァは、学生の頃社会の先生がこの話しをしたことを思い出しました。
とっさに出た行動は、「ありがとうございます」と言って頭を下げたこと。
お客さんは嬉しそうに帰っていったそうです。
この時にオバァが感じたことは「もし知らなかったら日本人として恥をかいたかもしれない・・・」でした。
※日露戦争時、世界を驚かせた「日本海海戦」にて、アルゼンチンから購入した軍艦2曹「春日」と「日進」も日本海軍連合艦隊として参戦し勝利に貢献しました。(毎年行われる日本海海戦記念式典では、同盟国であった英国の海軍武官と共に、アルゼンチンの海軍武官も招かれています。)
偶然にも、日系アメリカ人の宿泊客が、読み終わったからと言って置いていった日本の雑誌『正論』にこのエピソードが書かれていたそいうです。
(『正論』と一緒に大切にしている対馬丸関連の資料も見せてくれました)
主に書かれているのは日本人とユダヤ人についてですが、簡単に要約すると…
日本海海戦前、日本は国運をかけて戦費を海外調達しなければいけませんでした。当時の日本銀行副総裁であった高橋氏は国債を売り込むためにアメリカへ行きますが、ロシア相手に勝つ見込みが無い国を支援するはずもなく、引き受け手は全くいませんでした。次にイギリスに渡った高橋氏は、銀行家の晩餐会に招かれ、偶然となりの席に座ったドイツ生まれのユダヤ人、シフ氏と出会います。
シフ氏は世界中のユダヤ人に声をかけ、多くのユダヤ人が日本の国債を引き受けることになりました。
そして手にした戦費で、アルゼンチンから軍艦を購入し、日本海海戦の勝利に貢献しました。
なぜユダヤ人が勝ち目の無い日本を支援したかというと、当時ユダヤ人はロシアで迫害を受けており、ロシアの相手となる日本を助けたいという気持ちがあったそうです。
日本が戦勝した時は、世界中のユダヤ人が喜び、当時の連合艦隊司令長官だった東郷平八郎の名にあやかって、子どもの名を「トーゴー」と名付けることが流行ったというエピソードです。
(余談ですが、日本海海戦で勝利した日は5月27日であり、私の誕生日も5月27日なのです。これも何かの縁だと感じました・・・。)
他にも『正論』の記事には、「シフ家と天皇家の繋がり」や「日本人とユダヤ人の繋がり」の中で、外交官の杉原千畝が「生命のビザ」を発行したエピソード(そのことを書いた記事はこちら)以前に、ユダヤ人を助けた日本人の話しが書かれています。
以下『正論』2006年10月号「明治天皇以来つづく皇室と米国シフ家の知られざる交流」より(見にくい画像ですみません)
偶然いただくことになった雑誌に、「こんなこともあるんだね〜。」と、オバァ自身、自分の持っている縁の不思議さを深く感じていました。
紹介した本や資料は、一つ一つ大切に保管していました。
(『対馬丸の悲劇』に書かれた購入年月日)
オバァは家族の話しもしてくれました。
今では孫(3世)もおり、家族の間ではウチナーグチ(沖縄の方言)で会話をしているそうです。
また2016年開催の世界のウチナーンチュ大会に参加したオバァは、「あんな素晴らしいイベントだったら毎回参加したいさぁ〜」と言い、孫たちもいつかは参加させたいと考えているようでした。
人生の3分の1ほどしか沖縄で生活していないオバァ。
それでも、沖縄を愛し、誇りをもっていました。
こんなところと言っては失礼かもしれませんが、南極に近いパタゴニアで、「沖縄」が受け継がれていること、そしてオバァの人生や知らなかった日本の歴史についての話しを聞く事ができたとは、不思議さと縁を感じずにはいられませんでした。
久々に日本語で自分の人生を語ったのでしょう。2時間ほどしゃべり続けたおオバァは一息つき、
「もう90年・・・。とても早かった。」
と言い、その声は震え、涙を堪えていました。
そして言いました。
「人は簡単には死なないよ」
強く強く生きてきたオバァから出るこの言葉からは「簡単に死んでたまるものか」といった意思が込められているように感じました。
別れ際、「5年後、ウチナーンチュ大会で孫たちと沖縄に来るのを待ってますね!(それまで元気でいたくださいという気持ちを込めて)」と伝え握手をすると、渡してくれたのは、オバァ手作りの「のー饅頭」でした。