地球上に2カ所、「Okinawa」があることを知っていましたか?
一つはもちろん日本にある「沖縄県」。
もう一つは、ボリビアという国にある「オキナワ」です。
小さな村ですが、地図で見てもこのようにはっきり「Okinawa」と書かれています。
ボリビアはペルー、ブラジル、パラグアイ、アルゼンチンに挟まれた海を持たない内陸国です。
どうして遠く離れた地に、「オキナワ」があるのでしょうか。
実際に行ってみることにしましょう。
まず訪れたのはボリビア第2の都市、サンタクルス県。
サンタクルス県に属する「オキナワ」へ行くため、拠点となる中心部へと向かいます。
と、早速街でみかけた「OKINAWA」と書かれた文字。
ここには「オキナワ」で育った2世、3世の方が沖縄料理や日本食を扱うスーパーを営んでいました。
旅に出て8ヶ月。もちろん沖縄料理を食べることはありませんでしたが、まさか地球の裏側で地元の料理を食べられるとは思ってもいませんでした。
しっかりと出汁の効いた懐かしい味に、涙が出る思いをしました。
体に沖縄を染み込ませて、いざ「オキナワ」へと向かいます!
バスを乗り継いで2時間ほど、地球上にある第2の「オキナワ」は、方言で温かく迎え入れてくれました。(乗り継いだミニバスに書かれた「OKINAWA」の文字)
小さな村を歩いていると、沖縄・日本を感じるものがたくさんでテンションが上がってしまいます。
オキナワの中でも、移民の方が主に住んでいる地区が「日ボ協会」があるエリアです。
そこに公民館の役割を果たしている文化会館がありました。
(NHKの放送も見れるそいうです!)
ここに、移民の歴史を学ぶことができる資料館があると聞いていたので行ってみます。
私はこの日初の訪問者。文化会館の職員にカギを開けてもらい、入館します。
ウチナーンチュとして、当時の移民の方々がどのような思いと苦労を重ね、今のオキナワがあるのか、学んでおきましょう。
戦後、沖縄は物がなく、食べ物がなくとても厳しい状況でした。人口が増加する一方基地建設により土地が無くなり、農業をして生計を立てることができませんでした。仕方なく基地建設に加わっていた沖縄の人の失業問題も起こります。
そんな中、沖縄県民の反米軍感情が爆発する前に、米軍民政府は移民輸送のための予算を組み、海外移住を琉球政府に提案しました。
琉球政府はこれを受け入れる(もはや受け入れるしかなかった?)ことになります。
移住地先の候補として、ティグナーという人が南米を調査します。候補となった土地では、先に移民として渡っていた方々が「沖縄の人々を救いたい」という気持ちもあり、広大な土地も確保されました。
その地のは「うるま移住地」と名付けられます。
そして琉球政府に公開されたのが「ティグナー報告書」です。
これを受け取った琉球政府も「現地視察」に向かいます。
多くの懸念事項があったようですが、しっかりとした調査は行われず、琉球政府は受け入れることしかでなかったようです。
こうして始まった「琉球政府移民計画」の公募。
「土地がもらえる」という言葉につられて移民希望者が殺到しました。
しかし、いざ「うるま移住地」来てみると、土地はあるものの、そこはジャングルのようなもので、夢見ていた生活とはほど遠いものでした。 (資料館に残る開拓時代の道具)
また、不運にも謎の感染症が流行し(「うるま病」と名付けられる)、15人の命が奪われました。その後も適切な土地を求め、2度の移住地移動が行われました。
そしてようやく現在の移住地へとたどり着きます。
せっかく落ち着いた移住地にも、苦難は続きます。記録的な大水害に幾度か襲われ、作物も大打撃を受けます。ひどい時には屋根まで水かさが増す勢いだったそうです。
学校教育も一時中断し、村のみんなで改めて土地を整えていく時期もありました。
(道も通れず大変な被害に)
さらに悲しいことは続きます。
理想とは違う土地、環境に馴染めず、他の地域へ移住する人が増え、人口が急激に減ることになります。
それでも辛抱強く、オキナワの人々は前向きに生き延びてきました。
沖縄には「なんくるないさ」という言葉がありますが、その言葉の前提には「一生懸命に行えば、努力したら」などのニュアンスが含まれている言葉です。
当時の移民の方々もこの言葉を信じ、辛い戦争、そして辛かった移民生活の基盤を培ってきたのでしょう。
そんな辛い状況の中、癒してくれたのは三線の音色だったといいます。
数々の苦難を乗り越え、生活が安定してくると、さらに開拓は進み現在へと歴史が続いています。
(重機も入るようになりました)
(運動会はかなり盛り上がったそう)
(親子で投げ合った日もあったでしょう)
そして、ここオキナワは作物生産も安定し、また医師や弁護士など、優秀な人材も輩出していることから高い信頼と価値を得て、ボリビアから正式に「オキナワ」という地名をいただくことになったのです。
さらに、今では第2・第3移住地と活躍の場を広げ、多くのボリビア人も住む村へと発展したのです。(1954年から1964年の移民計画で、3385名が入植しました。)
(オキナワ出身の学生がデザインを学び制作したという作品)
その他、資料館には貴重な資料が多々残っています。
展示品の中でも特に印象的だったものが2つあったのでご紹介します。
一つ目はこちら。
写真では見えにくいかもしれませんが、「不発弾の火薬を取り出し、中に味噌などを詰めて移住する時に食料入れとして持ってきたもの」です。
家族、友人、隣人を殺し、恐怖を与えた爆弾。
それを使わざるを得ない戦後の悲惨さと、希望ある未来を信じながら苦しい思いをし、海を渡ってきた方々。平和で不自由ない暮らしをしている今の私たちには感じる事のできない思いだったでしょう…。
(米兵が使用していたものを活用しています)
(沖縄伝統の衣類と並ぶ、米兵の軍服。これらもまた沖縄より寒い気候では貴重な物でした。)
ウチナーンチュの強さを感じます。
2つ目がこちら。
移民の方々が次世代のために最優先事項として取り組んだのは「教育」でした。
苦しい状況の中でも、力を尽くした当時の方々の想いに感銘を受けます。
先に述べたように、今こうしてこの地に信頼と価値を生み出したのは間違いなく「教育」の力であり、それを支えていた「父兄会」の力です。
そしてこの思いは今でも受け継がれています。
私立学校として継続している日ボ学校です。
手作りで作った机と椅子。古いものには歴史を感じる傷が残ります。
使用されている教科書。入学・進学の準備中でした。
授業は日本語で行うことが主ですが、スペイン語での授業もあるそうです。
現在この日ボ学校で勤務なさっている伊波さんは、JAICAを通して沖縄から派遣されてきています。実は伊波さんと私は、以前同じ職場で働いていたという縁もあり(紹介してもらうまで気づきませんでした)、この旅でオキナワへ行くことは必然だったのかと感じました。
伊波さんは旅行の中でオキナワに来た事があり、当時もオキナワの方々が温かく迎え入れてくれたことが忘れられず、「いつかはここで勤務してみたい」という夢を持っていたそうです。本人も「たまたま」と言っていましたが、これまた縁あって派遣が決まったそうです。
厚い恩を受けた伊波さんは、ある事を決意します。それは・・・
子どもたちを「世界のウチナーンチュ大会(5年に1回開催される、海外移民など沖縄にルーツをもつ海外の日系人を招待して開催されるイベント)へ連れて行くこと」です。
連れて行くと言っても、学校や日ボ協会から予算が組まれることはなく、費用は自己負担となります。日本と南米の往復。大金になることは想像できると思います。
それでも、「自分たちのルーツを知るため」と、このイベントに参加させたい意向を保護者に伝えると、反対するどころか借金をしてまで行かせた家庭もあったそうです。
実際に参加した生徒は17名。伊波さんは子どもたちを連れて、2016年10月に行われた「第6回世界のウチナーンチュ大会」に参加しました。
旅費の負担も考慮し、宿泊は伊波さんの自宅と親戚のお家にてホームステイだったそうです。
(ウチナーンチュ大会会場にて)
ただイベントに参加するだけでなく、いくつかの学校に問い合わせ、日本の学校を体験してもらったそうです。
(沖縄の学校で交流するオキナワの生徒)
素敵なエピソードはまだ続きます。
ボリビアを出発する前に、自分の親戚の中で沖縄戦で犠牲になった人の名前をオジーオバーから聞いて、自分の親戚の名前を平和の礎から探すということも行ったそうです。
数々の苦難を乗り越えてきた父母、オジーオバー、祖先のルーツが「沖縄」にあることを「体験」を通して知り、沖縄のアイデンティティを引き継いだ子どもたち。
そして地球の裏側にある「オキナワ」にもどり、この体験を報告会にて発表されたそうです。
伊波さんとのお話の中で、このような言葉を話していただきました。
「私が行ったのはきっかけづくり。あとは子どもたちが自分で考えて選んで決めることかな。」
ルーツは沖縄にあるけれど、生まれも育ちも国籍もボリビア。
アイデンティティを大切にしながらも、今を生きる子どもたちにルーツを押し付けるのではなく、「選択」することを与えた伊波さん。
子どもたちにとって「沖縄」はどのように感じたのでしょうか。
1世の方が少なくなり、4世が生まれはじめ、新たな時代を迎えているオキナワ。今回沖縄へ行った17名の中から、アイデンティティを継承し、第2のオキナワに誇りを持って守っていく方が出てくることでしょう。
伊波さんの活動に感銘を受けると同時に、こうして素敵な「オキナワ」という場所があることを多くの方に伝えていかなければいけないと感じました。
(※ウチナーンチュ大会・報告会の写真は伊波さんによるご提供です。)
実はオキナワ滞在の夜、伊波さんのお宅に宿泊されてもらう予定だったので、待ち合わせ時間まで文化会館でのんびり待つことにしました。
(文化会館の図書館)
(本の種類は充実していました)
(広報誌なども取り寄せています)
館内をフラフラ歩いていると、沖縄訛りの日本語で話しかけてくれる方々がいました。その都度「沖縄から来ました」と挨拶をしました。聞くと、みなさんは日ボ協会の役員の方で、この日は会議があるので集まっているとのこと。さらに、この日は忘年会があるから「参加しなさい」と・・・。
私は「伊波さんとの約束があるので・・・」とお断りをすると、
「伊波先生ね〜?あれ(彼)も来るよ〜!連絡しとくさ〜。」
なんとも懐かしいノリ。ここは本当に沖縄だ!と実感します。
忘年会の時間。
たまたま滞在した日が、日ボ協会の忘年会だなんて、これも何かの縁でしょうか。ここではウチナーグチ(沖縄の方言)が飛び交っています。
上の写真は「開会の言葉」のシーンなのでちょっと硬い感じですが、このあとはご存知の通り、ワイワイ楽しく過ごします!
ここにいたのは1世の方が1人(会長)で、他は2世のようです。それでもみなさん、方言が強く残っており、もはや現代人の私には聞き取れません。
「なかなか難しい方言だな〜」と思っていたら、よく聞くと少しですが、スペイン語も交えながら話していることに気づきました。
この空間では、日本語・方言・スペイン語があり、とても不思議な空間でした。
また、2世の方の中でも、沖縄の記憶が小さい頃しかないという方もいらっしゃり、その方は、何が日本語なのか、何が方言なのかごっちゃになっているという事もあるそうです。
美味しいご飯に、美味しいビール。言葉は日本語と方言。ここが地球の裏側だということを忘れさせてくれます。
貴重なお話もたくさん伺うことができました。
移民の歴史の話しはもちろんですが、興味深かったのは「沖縄も変わっている」ということ。
観光業が盛んになり、発展し続ける沖縄。昔の沖縄を知っている移民の方々は、沖縄に行く機会がある事にその変貌ぶりに驚かさせるそうです。
ここ「オキナワ」に残っていたのは沖縄の
「なんくるないさ〜」
「いちゃりばちょーで(一度会うとみんな友達)」
「島くとぅば(方言)」
であり、強く強く生き延びてきた方々の「沖縄を愛する心」は、ボリビアの地でありながら、ガジュマルの木のように強く根を張っています。
ここへ来て、本来の「沖縄」が残っている場所は「オキナワ」なのかもしれない…。と不思議な感覚を覚えました。
不思議な時間もあっという間に過ぎでしまいます。最後にみんなで記念撮影。
沖縄にも必ずいますいね〜「瓶ビールを片手に笑顔を見せるおじさん」。
最後に・・・
オキナワを訪れたのは旅に出てちょうど8ヶ月。世界の国々や地域、島などを回ってきましたが、こんな小さな島でこれほどの歴史と文化、芸能や工芸、心の詰まった島は他にないと感じます。
ある方に沖縄を紹介した際、「沖縄って世界が凝縮されているんですね」と話していましたが、まさしくその言葉通りだと感じます。
観光地としてさらに発展し続ける沖縄。発展し豊になることはいいことなのかもしれませんが、残さないといけないも、伝えていかないといけないものは多々あります。
改めてこの島に生まれたことを誇りに思いましたし、沖縄にルーツを持つ移民した方々についてもっと知りたいと思った経験でした。
そしてこの沖縄を誇りに思う人々が世界中にいるという強い繋がりに、この島のもつ壮大なエネルギーを感じました。
ウチナーンチュはすごい!
隆吾さん、すごくいい記事を読ませていただきました。ルーツって、うまく言葉にできないけれど、自分の心の奥に熱いものを感じますよね。私も、教職を辞めて、今は大好きな南国の植物「クロトン」を生地に描いて作品作りをしています。なぜ「クロトンなの?」とよく聞かれますが、おそらく生まれ育った宮古島の、おばあの家の庭にクロトンが鮮やかに咲いていて、そこで過ごした時間が長かったから、無意識のうちに心に焼き付いていたんだろうな・・・と思っています。私の描く、描きたいと思う「クロトン」のルーツは宮古島のおばあの庭のクロトン。それがいつも心にあります。(自分のこといっぱい書いてスミマセン!)
ボリビアのオキナワで体験した感動がすごく伝わりました。導かれましたね。
どうか無事に楽しい旅を続けてくださいね。
久貝さん、素敵なコメントありがとうございます。帰国した際にはぜひ、ルーツの詰まった作品を見せてください!また、お話も聞かせてくださいね。
はーい。無事帰国を願い楽しみにしています~。ありがとう!