美術館に行くこと。どんなイメージをお持ちでしょうか。
「絵なんてよくわからない」「行ってもよくわからない」「若い人がいくところではない」
なんて声が多く聞こえてきそうです。
そんな美術館も、日本と海外ではあり方が違いますね。
その一例として…、(※全ての美術館ではありません)
【違い1】圧倒的なコレクションの差
日本の美術館の多くは、バブルの時代に買い込んだ、海外の有名作家の作品を数点保持しているのが現状。常設点では関心が薄く、企画展で作品を集めなければ集客数が伸びません。もちろんコレクションが豊富で、時代の流れに沿った作品を集めている美術館や、特定の作家に特化した美術館もありますが少ないです。
それに比べ海外(主に西洋)は、常設展がメインです。
1日では見きれないほどコレクション豊富な美術館も少なくはありません。大きな美術館に限らず、中規模でも素晴らしい美術館が多いです。
海外と日本の美術館のコレクション内容については、歴史的背景や地域の差があるので仕方ないところでしょう…。
【違い2】作品との距離
日本ではガラスケースや一定の距離を置いて鑑賞しなければならないことがありますが、海外では手でふれる距離に作品が展示されていることが多いです。
また日本では、鉛筆以外の筆記用具は基本的に使用してはいけません(作品に付着した際、インクでは修復が難しい)。
海外では油絵の具を持ち込み、模写してもかまいません(連日におよぶ模写のため、イーゼルや絵の具を角に置かせてもらっている美術館もありました)。(長時間必死に模写するおじさん)
(名画の前に座り込み、模写する家族)
【違い3】美術教育の積極性
日本の美術館は静かなイメージを持っている方も多くいるかと思います。他の鑑賞者の邪魔にならないよう、ひそひそ声で話さないといけない雰囲気を感じた経験はあるでしょう。
ちなみに、美術館では小さな声で話さなければいけないというルールはありません。もちろん、必要以上のことを大声で話すことはマナーとして問題がありますが、作品について話し合うことについてはむしろ、どんどん話してほしいというのが本来です。
海外では美術館での会話は当たり前です。
(感じたことを互いに言い合う親子)
(名画の前に座り込み、鑑賞を始める子どもたち)
(とある展示室では勉強会が。しばらく立ち入り禁止になることもあります)
このような光景はよく見かけられ美術館は教育機関としての役割を担っています。
海外と日本の違いを見てきましたが、
要するに美術が生活の中に溶け込んでいるということが決定的な違いです。
とは言っても、やはりコレクションの差は大きいですよね…。
「やっぱり作品はよくわからない」という声がまだ聞こえてきそうです…。
絵画や作品の見方は人それぞれでいいんです。例えば…
(細かくかいているなぁ…)
(動きや構図がおもしろいなぁ…)
(よくわからないけど、色がきれいだなぁ…)
(え!?描きかけじゃん!でも、こんなふうに描き進めているんだぁ…)
(筆の跡が勢いあるなぁ…)
など、何でもいいわけです。
よく見ることで気づくことはたくさんあります。
重要なのは感性を磨くこと。
作品の背景がわかるととてもおもしろくなってきますが、作品の意味するところは後からでいいのです。むしろ知らなくたってもいいのです。好みの感覚は人それぞれ。ちょっと作品に心を寄せて、その作品と自分の何かがフィットしたらそれは素敵な出会い。
作品との距離…
生活の中に溶け込むくらい、もっともっと近くなったら…
作品との距離…
そんな時、事件は前触れもなく起きました。
先日訪れた美術館。ロンドン・ナショナルギャラリー。
ある展示室が事件現場です。
実は、今回の事件のようなことは何度か見た事があり、何度も現実を伝えなければいけないと思いました…。その都度、特定の国を一概に語ることを避けたかったし、それはよくなことだというのは十分に理解しているつもりでした。しかし、多くの美術館で見てきたマナーに関する事件は特定の国の方々が圧倒的に多く…しかも今回に限っては許されない事件だったのです…。
ある国の団体客がゴッホの『ひまわり』の前に押しよせてきました。
鑑賞することなく、アイドルと化した作品と写真を撮るのはよく見られる光景です(国籍関係なく)。作品を実際の目ではなく、カメラのモニターでしか見ていません…。これはカメラを持っていると起こる現象です。「残す」ことに価値を置き、本来必要な「感じる」ことの価値を持ちません(もちろんこのような大きな美術館で、全ての作品をじっくり見ることはほぼ不可能です。私自身、サラッと流す作品や展示室もあります)。
そして押し寄せてきた団体は「すみません(日本語で言うなら)」の一言もなく、当たり前のようにグイグイ割り込んできます…。何の説明もなく、ただ作品の前に立たされて写真を撮られる子どもの姿も…。
そして、ついにその時が来てしまいました。
なんと、そのある国の子どもが、作品の前に設置された紐(混雑から作品を保護するため)を足でグイグイ押して、作品に近づき、手を伸ばしました。
…
『ひまわり』のフレームに触れました。
さすがにそれには周りの外国人の方々も何が起こったか、一瞬自分の目を疑い、唖然とし、開いた口が塞がらない人もいました。
その子の親はその様子を見ていましたが、特になにも気にする事なく「ほら、行くぞ」と言わんばかりにのんきに手招きしていました。
※何度も書きますが、特定の国を指して言う事は良くない事だと理解はしていますし、様々な国籍の方の良くないマナーを見てきました。もしかしたら私自身気づいていないだけで、良くない行為をしていることもあるかもしれません。今回はあくまで一つの例として書き記したものです。そして紛れもない事実です。
【違い4】鑑賞者の心
作品に触れることはありませんが、今回載せた特定の国だけでなく、日本の観光客の似たような光景を見かけることはあります。
少ない休み。ダイジェストで効率よく多くの作品を見る。記録に残したくなる。
よく分かります。記録に残すことも大切な行為です。
しかし、作品との距離は物理的なものではなく、「心」で距離を縮めなければいけません。
「先進国」に生きる日本人…。
「先心国」になるために、美術本来の力を感覚的に理解することが必要なのかもしれません。(※全ての人ではありません)。
いいね~。実にいい。
美術専攻の知識と視点を遺憾なく発揮した構成はみごと。
題名にわくわくしながら進むが、生活に溶け込む文化の違いを力説し、写真を雄弁に使うところに感心する。親子や子供たちの写真を使うなど感性の鋭さとセンスがないとできない技である。
そう感じるのはお父さんだけではないはずである。
作品をみての感じ方を並べるなど親切である。
「作品との距離」という新しいフレームも新鮮な感覚である。
そして、ある国。
容易に想像できるが、なんだろう。一言で言えばその国の総合的な文化だろう。
その国の文化と政治が、子供が「ひまわり」に触らせたと思う。
自己本位の文化であろうと思う。
「感性を磨く」。
芸術も教育も政治も会社経営も農業も・・・そして人生も。全てに通じる最たるものである。
日本を牽制した「先心国」もいい表現だ。
「美術本来の力を感覚的に理解することが必要なのかもしれません。(※全ての人ではありません)。」とあるが。
お父さんは全ての人に必要だと思う。
そのことが(芸術が)、人類を戦争から救うただ一つの方法ではないかと心から思うからである。