「写真は撮ってもかまいませんが、ここは観光地ではありません。歴史を伝えるための場所です。」
中谷さんのこの言葉から見学が始まりました。
中谷さんは、アウシュビッツ・ビルケナウ博物館で初めて、外国人ガイドとして認められた方です。(写真左、イヤホンを通して淡々と語りかけてくれる中谷さん)
第2次世界大戦時、この場所で多くのユダヤ人が虐殺(ホロコースト)されたのはみなさんもご存知でしょう。
ユダヤ人について
歴史を遡ると、ローマ帝国にユダヤ国家は滅亡させられました。その後ユダヤ人は各国に分散します。
国家を持っていなかったユダヤ人たちでしたが、自分たちの宗教を守り続けます。そのためどこへ行っても異邦人でした。ヨーロッパのキリスト教社会では異教徒にの彼らに対し、厳しい対応をしていました。そんな世の中を生きぬくことで、ユダヤ人たちは優秀な人材を多く輩出することになります。(土地や不動産を持てなかったことから、教育にお金をかけることができたという説があります)
ノーベル賞受賞者の20%がユダヤ人のようです。(ユダヤ人は世界の人口の0.2%以下)様々なものを失ってきた彼らに残っていたのは「知識」。知識の大切さを知っている民族なのです。
有名なユダヤ人:アインシュタイン、スティーブン・スピルバーグなど
そして世界の人々は、優秀なユダヤ人に嫉妬や嫌悪感を抱くようになり、ユダヤ人たちは迫害を受けるようになります。
第1次世界大戦時、ドイツの反ユダヤ主義者による「ユダヤ人は戦争に非協力的」というプロパガンダが行われます。その後の敗戦もユダヤ人が原因の一つという見方が広まりました。
そうした流れで出来た政党がナチ党であり、ヒトラーによるホロコーストが始まります。ナチズムでユダヤ人は「すべての反ドイツ的なものの創造者」とされました。
そんな時代背景などにも軽く触れつつ…
「ここで考えなければいけないことがある」と中谷さんが言いました。
①ヒトラーは選挙で選ばれた人であるということ。当時ヒトラーの支持率は3割程度ということ(それなのにここまで恐ろしいことができた)。
②多くの人が、ホロコーストという正当化された事柄に対して、周り合わせてそうすることが正解と感じた「傍観者」だったということ。また、この問題はドイツだけでなく、傍観者だった他国も深く考えるべき事柄である。目の前でユダヤ人が連れて行かれるのも見ていた。でも、「それが自分を守る方法」だった。(学校などで起こるイジメの構造と同じである)
③そしてこの残虐な行為を、当時の「先進国」であるドイツが行ったということ。
発展する状況は気をつけなければいけない。発展するが故に細かいことが見えなくなり、次第に「このまま行けばいいだろう」が通用しなくなる。そこにジレンマやストレスが加わり、人間はそれを誰かのせいにする。
中谷さんは続けて言いました。
「だからこそ必要なのが『教育』である。」と。
日本の社会は急速に変化しているのに、教育が変わらない。(文科省としては6年後?に「現代史」という科目を加えるそうです)
なにも学校だけでなく、子どもだけでなく、社会全体の教育として考えていかないといけない。
最初に中谷さんが言っていた「ここは観光地ではない」という言葉を思い出し、そして理解しました。ここは「教育の場」であるということを。
ポーランドでは中学3年生でこの歴史に触れ、高校で深く考えていくそうです。この日は休日でしたが学生の姿も見られました。
アウシュビッツ・ビルケナウ第1・第2収容所
下写真、点線の小さい方が第1収容所、大きい方が第2収容所。
ナチス・ドイツに「生きるに値しない命」とされこの地へ来たユダヤ人たちの運命は、悲惨なものでした。(収容所で亡くなった90%はユダヤ人。残りはポーランド人をはじめとする、ドイツに抵抗した人たちでした)
収容所では、着いたばかりのユダヤ人を医者が選別し、働けそうにないものはそのままガス室へと送られました。また、15歳以下は子どもとみなされ、同様です。(上の写真のような「記録」にも残らない人が殆どで、亡くなった数は正式にはわかりません)
画像が悪く見えにくいですが、ビルケナウ第2収容所に到着したばかりのユダヤ人です。兵装した医者が右手で奥を指差しています。奥に歩いているユダヤ人が見えますが、その後右に曲がります。(写真右上、人々が並んでいるのが見えます)
写真奥に写っている建物がこれです↓
その先は、ガス室です。
事実隠ぺいのため、ドイツ軍によって爆破されたガス室(脱衣所)
奥の階段から地下に入り、「消毒・シャワー」だと言われ、服を脱がされます。(シャワー管があったそうですが、もちろん水は出ません)
写真右、ガス室に入ります。
そしてそのまま焼却炉で処理されます。
遺灰は隣接した人口の池に流されます。
命を助ける医者が死へと導いていました。その他、人体実験を行う医者もいたようです。ここにいたドイツ兵や医者たちは、自分たちが悪いことをしているという気持はなく、また罪悪感の残らないように作られたシステムでした。
上3枚の写真は第1収容所のもの。
1枚目の写真のように、天井にはガス缶を投下する穴が開いています。この虐殺の仕組みもドイツ軍の精神的な負担にならないようにと考えられており、遺体を焼却する作業はユダヤ人の労働者に行わせました(命と引き換えに)。
発見された使用済みガス缶の一部
生き延びたとしても、その環境は悲惨なものでした。
「働けば自由になる」と書かれた第1収容所の入り口
そしてこの「B」が逆さまなのは、ユダヤ人のせめてもの抵抗という説と、当時の流行だったという説があります。
回りには電気が流れる柵が2重に。生きることに耐えれなくなった人が自殺することもあったそうです。
「死の壁」 ドイツに抵抗した人が裁判にかけられ、殆どが死刑。ここで銃殺されました。
1つのスペースに5人が詰め込まれたそうです。
1日2回のトイレ。穴が開いているだけのトイレは衛生的にもよくありません。感染症を恐れたドイツ人は来なかったため、ユダヤ人にとっては一番安全な場所でした。(ここで育った赤ちゃんがその後生き延びたという話もあります)
手洗い場。 当時、助かったら何をしたいかを語り合ったそうです。
ここで感じていたことは、「歯を磨きたい」だったそうです。(生存者の証言)
子ども達(15歳以上)が収容されていた場所。学校へ通う絵を描き、希望を持って生活していました。アンネ・フランクもここに滞在していました。
遺品(カバン・靴)
今後手にすることのないカバンには、持ち主を示す情報を書かせて、安心させました。
残っていた生活用品
収容される際に子どもを安心させるために持ち込みました。また思い入れのあるものでしたが、こうして残っているものは、ドイツにとって不必要とされたものでした。
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所は毎日多くの訪問者がおり、外国人で一番多いのはドイツ人だそうです。そして写真のようにユダヤ人の方も来ます。
年々少なくなっている生存者の方々。
最後に中谷さんはこう言っていました。
「これは役割分担なのかもしれません。生存者の方々は深い傷を癒せないまま証言を残してくれました。そして未来をつくっていくのは私たちのやるべきことです。」
「これまでは日本も『ついていけばいい時代』でした。今からはそれでは生きて行けない時代。たくさんの要素がある時代だからころ、傍観者にならず、自分なりの価値観を持って生きて行かなければいけない。そして、それを教育して行かなければいけない。
何を「見た」「感じた」ではなく、何を「考えた」か。(自分なりの答えを出す)
そうして自分なりの価値観を磨き、他人の意見ではなく自分の価値観で、未来を見て行かないといけない。と考えさせられました。